物心つくかつかないかの昔に私が欲しかったおもちゃ、その名前までは覚えていなかったのですが、さすが神様、仏様、Google様、商品名が分かりました。
「はたらくじどうしゃビッグローダー」
これだこれ。一台の動力車がコースを走りながら、ポイントポイントで装備を変えてダンプトラック、フォークリフト、ペイローダーに変化し、積載物(プラスチックの玉)をひたすら動かし続ける様子を見て楽しむおもちゃです。子どもながらにこのおもちゃが意外と高価なことは分かっていて、欲しいのに親に買ってくれとはせがまなかったことも思い出します。いじらしいな。
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唐突にこのビッグローダーを思い出したのは、平野啓一郎さんの「私とは何か——「個人」から「分人」へ」(講談社現代新書)を読んでいたから。この本で平野氏は、「私」を構成するものとしてそれ以上分割できない「個人」があって、その個人が局面ごとに異なるパーソナリティを演じているという考え方ではなく、局面ごとに違うパーソナリティ=分人=もすべて自分の一部で、その分人の集合体が「私」という存在だろう、という考え方を打ち出してらっしゃる。
少なくとも「それ以上分割できない個人」という考え方は、ただ一人の神と向き合う一人の自分という図式が根底にある西洋世界の産物だろうと。そもそもperson、peronalityって古代ギリシャの演劇で使われた仮面「ペルソナ」が語源だし、本当の自分というのがまずあって、それがその時々にふさわしい仮面を付けているのが「私」の姿だという考え方のルーツは日本にはなかったんじゃないのか。
たしかに、分人の集合体が「私」であると考えると合点がいくことは多い。その辺りの事情が「私とは何か」の本で説明されています。
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で、ビッグローダー。ポイントポイントで動力車の上に載る装備が変わってダンプトラックになったり、フォークリフトになったりする様子が、その時々に役割、パーソナリティを変化させる「私」の動きを想起させたのか、急に懐かしく思い出したわけでして。
分人の集合体が「私」だというのはストンと理解できる。しかし、肉体としての「私」はひとつ。生物としての生体機能はひとつ。そしてビッグローダーには動力車がある。システムに動力を与えるものとして必須なもの。ダンプトラックやフォークリフトの装備が「分人」、動力車はそれを支える肉体だったのか。
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1977年発売のビッグローダーのコンセプトは、現在も販売されている「きかんしゃトーマスとハロルドのビッグローダー」などに引き継がれているようです。子どももいないのに、うっかり「ショッピングカートに入れる」をクリックしないようにしないと。
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